映画を観ました

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を観てとりとめなく考えたこと。

 

家族の最小単位の夫婦が出てくる。机の上いっぱいに積みあがった領収書の山を分類しながらイライラせかせかしているエブリン。商売を取り仕切り家計を担っているようだ。そして何かの用紙を手に、妻と話したいのだが相手にされずあきらめるウェイモンド。

 

家庭のなかで経済を担っている者が無意識に優位に立ち、同等だったはずのパートナーに配慮を忘れ、相手の話を聞き流したり聞くに値せずという態度をとりがちになる。

結果そのないがしろにした(本人は自覚無いのだろうが)相手に、離婚を突き付けられビックリしてうろたえる。

だって相手がそんなこと考えてるなんて全く思ってもいなかったし、もしかしたら相手が思考する人間であるということも忘れていたのかもしれないから。「空気のような存在」でうまくいってると自己完結してたのかもしれない。

 

エブリンの幾つもの世界の中に、頼りになったりカッコ良かったりいつものだったりするウェイモンドが出てくる。ウェイモンドを選ばなかった世界で成功しても、でもやっぱり彼が出てくる。

彼のいない世界などエブリンにはありえないということだ。彼女はもう一度ウェイモンドをみる。

夫婦というたった2人きりの世界。相手に向き合い話を聞き理解しようとすることの始まり。

 

娘との関係も、娘の同性のパートナーをほんとのとこでは受け入れられずにいるのに曖昧にしたままその都度適当な対応をする、娘の提案をにべもなく却下する。容姿についてもちょっと嫌味だ。娘は母親と会うと心が不安定になる。

エブリンは娘の真実に向き合わない。娘は成長し大人になり、エブリンの望むように生きてはくれないのだと分かっていない。

 

あちこち飛びながら、エブリンは娘の心に寄り添うこと、彼女の決心・行動を認められる自分であること、それが必要なのだと気が付く。エブリンとその父親との関係を思い返し、同じことを娘にしてしまうところだったと思う。

納得できないままなのに、話もせずに終わらせるようなことはしてはいけない。お互いに分かってもらえるように言葉を尽くさなくてはいけないのだと。

 

エブリンのあちこちの世界は、エブリンの日常に存在する多種多様な差別や不平等の表現かなと思った。当たり前のようにこういう事象に囲まれている。

 

手に負えない大きな問題と思ってしまうけど、実のところ夫婦から家族から、あるいは友人同士から、差別を解消するはじめの一歩がある。

小さな単位が話し合い理解を深めていけば偏見がなくなり、ヘイトクライムも起きなくなる。。そんなことが描いてあったのかななんて。わたしの勝手な感想ですので全く違ってるかも。

 

カンフーギャグと誤解して観に行って訳わかんなくなった映画ですが、なんであれ、こんな風にあれこれ長く思考をめぐらせるこの映画はすごいのかもしれない。

大爆笑も感動で涙!もなかったけど、ブラックジョークも笑っていいのかこれ?ってなったりもしたけど、アメリカの人はこの映画をもっと身近に感じて頷いたり笑ったり出来るのかもしれない。日本に住む私はまだ差別問題やジェンダー平等とかに鈍感なところがあるので大変だった。